「Nikon W-NIKKOR 2.5cm F4」は、日本光学工業(現在のニコン)がレンジファインダー式のNikon Sシリーズ向けに開発した超広角レンズです。
焦点距離は2.5cm、現在の表記なら25mm。
1950年代前半という時代に、35mm判用としてこれほど広い画角を持つレンズを極めて小さな鏡筒に収めた、ニッコール史の中でも非常に個性的な一本です。
今回取り上げる個体には「E.P.」の刻印があります。
しかし「E.P. model」という名称の別光学モデルが存在するというより、E.P.は当時の流通・免税販売に関連して付けられた刻印と考えるのが適切です。
Nikon W-NIKKOR 2.5cm F4とは
W-NIKKOR 2.5cm F4は、Nikon Sシリーズ用交換レンズとして開発された広角単焦点レンズです。
ニコン公式の「ニッコール千夜一夜物語」によれば、光学設計を担当したのは東秀夫氏。
設計は1953年秋に完成し、その後試作を経て、量産用図面が1954年9月に出図されています。
つまり1950年代半ばのNikon Sシリーズ全盛期に登場したレンズです。
主な特徴は、
- 焦点距離:25mm(2.5cm)
- 開放F値:F4
- 光学系:トポゴン型
- レンズ構成:4枚
- マニュアルフォーカス
- Nikon Sマウント仕様あり
- Leicaスクリューマウント仕様も存在
- コーティング仕様
- 非常に小型・薄型の鏡筒
などです。
ニコン自身もこのレンズを、Sシリーズ用レンズの中でも際立ってユニークな「パンケーキ広角レンズ」と紹介しています。
驚くほど小さな25mm超広角レンズ
W-NIKKOR 2.5cm F4の写真を見ると、まず驚かされるのがその大きさです。
25mmという超広角レンズなのに、鏡筒は非常に薄く、前玉も小さい。
現代の高性能超広角レンズに見られるような巨大な前玉や、何枚もの特殊レンズを詰め込んだ大型鏡筒とは正反対です。
ニコン公式記事でも「ビー玉のような」と表現されるほど独特な姿をしています。
しかし、小さいから簡単に作れたわけではありません。
むしろ逆でした。
0.45mmしかないレンズを使用
このレンズの製造で特に驚かされるのが、中央部に使用されている凹レンズです。
ニコンによれば、2枚の凹レンズの厚さはわずか0.45mm。
しかも半球に近いほど強い曲率を持ち、高い加工精度が要求されていました。
小型化すると部品も小さくなりますが、許容できる誤差まで小さくなります。
そのため製造現場では非常に苦労したとされています。
さらにこの薄いレンズは、
- エアを吹き付けると割れたり飛んだりする
- 強くつまめない
- アルコール清掃による急激な温度変化でも破損する可能性がある
ほど繊細でした。
そのため専用の羽毛を使った清掃道具まで用意されていたと、ニコン公式の記事で紹介されています。
完成品だけ見れば小さなレンズ。
しかし、その中には当時の日本光学の加工技術が凝縮されています。
トポゴン型の4枚構成
W-NIKKOR 2.5cm F4は「トポゴン型」と呼ばれる光学形式を採用しています。
基本構成は、
凸-凹-凹-凸
という4枚構成。
中央の絞りを挟み、前後がほぼ対称になる構造です。
トポゴンは1933年にツァイスによって開発された広角レンズ設計で、その源流はゲルツのハイペルゴンまでさかのぼります。
この方式の大きな特徴が、
歪曲収差が非常に少ないこと
です。
広角レンズでは画面の端へ行くほど直線が曲がって見える歪曲が問題になります。
しかしトポゴン型は対称性の高い構成によって歪曲や像面湾曲を抑えやすく、かつては航空写真や地図作成など正確な記録が必要な分野でも重視されました。
その設計思想が一般写真用の小型35mmレンズへ応用されたのが、W-NIKKOR 2.5cm F4です。
「広角臭さ」が少ない自然な描写
ニコン公式記事で非常に興味深い評価があります。
このレンズの魅力について、
広角レンズ特有の不自然さを感じにくいこと
が挙げられています。
25mmといえばかなりの広角です。
ところが歪曲が少ないトポゴン型の特徴によって、遠景などでは極端に誇張された印象になりにくく、自然な遠近感を得やすいとされています。
建築物や街並みなど直線の多い被写体とも相性のよい設計です。
開放F4では柔らかい描写
もちろん1950年代の25mmレンズです。
現代の超広角レンズと同じ描写を期待するものではありません。
ニコンによる解析では、開放F4付近では球面収差やコマ収差の影響によるフレアが残り、画面周辺へ行くほど描写が柔らかくなります。
しかし単純に「解像しない」のではなく、中心部には一定の解像感があり、フレアによってコントラストが穏やかになるという特徴があります。
オールドレンズらしい描写を楽しむなら、むしろF4開放の性格も魅力になるでしょう。
F8からF11で本領を発揮
絞ることで描写は大きく変化します。
ニコン公式の実写評価では、
- F4:フレアがあり柔らかい
- F5.6:中心部から徐々に改善
- F8:周辺まで解像力が向上
- F11:さらにシャープになり最良の画質
- F16~F22:回折によって徐々に解像感低下
という傾向が紹介されています。
つまり現代的な使い方をするなら、F8~F11あたりがこのレンズのおいしい領域です。
約70年前に設計された4枚構成の25mmレンズが、絞ることでしっかりした描写を見せるというのは面白いところです。
周辺光量落ちはかなり大きい
トポゴン型には弱点もあります。
それが周辺光量です。
ニコンによれば、この2.5cm F4では最周辺部の光量は約13%。
数字だけを見るとかなり大きな光量落ちです。
現代のデジタルレンズならソフトウェア補正の対象になりそうなレベルでしょう。
しかしトポゴン型の構造的な特徴を考えれば、当時としては良好な値だったとニコンは評価しています。
フィルムで撮影すれば、四隅が自然に暗く落ちる独特な雰囲気も含めて楽しめます。
「W-NIKKOR・C」のCとは?
このレンズでは「W-NIKKOR・C」という表記を見かけることがあります。
Wは広角を意味するWide系の名称。
一方、当時のNIKKORに付けられていた「C」は、コーティングが施されたレンズを示す表記です。
1950年代はレンズコーティング技術が製品性能を示す重要な要素だった時代。
現在では当たり前になったコーティングも、当時はレンズ名に示す価値のある仕様でした。
Sマウント版にはピントリングがない
このレンズのもうひとつの変わった特徴が、Nikon Sマウント仕様です。
ニコン公式記事でも、
「ピントリングすらない」
という点が、このレンズのユニークさとして紹介されています。
これは故障でも部品欠品でもありません。
Nikon Sシリーズでは、ボディ側のフォーカシングホイールを利用してレンズを繰り出し、ピントを合わせることができます。
その機構を利用することで、この小さなレンズには独立したフォーカスリングを持たせる必要がありませんでした。
つまり、
レンズだけ見てもピントを合わせられない。
カメラボディと組み合わせて初めて完全な撮影システムになるわけです。
現代の交換レンズとはかなり異なる思想です。
Leicaスクリューマウント版も存在する
W-NIKKOR 2.5cm F4にはNikon Sマウントだけでなく、Leicaスクリューマウント(LTM/M39)仕様も存在します。
こちらは他社製レンジファインダーカメラで使用する必要があるため、Sマウント版とは異なりレンズ側にピント調整機構があります。
そのため中古市場では、
Nikon Sマウント版
と
LTM版
を混同しないことが重要です。
特に現代のミラーレスカメラへアダプター経由で使用したい場合、Sマウント版はボディ側のピント機構に依存するため、LTM版ほど簡単ではありません。
外観がよく似ていても、用途はかなり違います。
E.P. modelとは?
今回のレンズで特に気になるのが、
〈E.P.〉
という刻印です。
一般にE.P.刻印は、戦後の日本で米軍関係者向けのPost Exchangeなどを通じて免税販売されたカメラやレンズに見られるものとされています。
国内のクラシックカメラ専門店でも「Exchange Post」の意味として説明されており、米軍関係の売店などで販売された機材に付けられた識別刻印とされています。
重要なのは、
E.P.だから通常版より光学性能が高いわけではない
という点です。
レンズ設計そのものが異なる「E.P.仕様」ではなく、基本的には販売経路や税務上の扱いを示す刻印です。
したがって「W-NIKKOR 2.5cm F4 E.P. model」という中古品名を見た場合は、
「E.P.刻印が入ったW-NIKKOR 2.5cm F4」
と理解すると分かりやすいでしょう。
ただし現在では、この刻印自体に歴史的・コレクション的な価値を感じる愛好家もいます。
E.P.刻印はニコンだけではない
E.P.刻印はニコン独自の制度ではありません。
1950年代以降の日本製カメラやレンズ、双眼鏡などでも見つかることがあります。
つまりE.P.マークは、
「ニコンの特殊仕様レンズ」
を示しているのではなく、
戦後日本のカメラ輸出・免税販売の歴史を物語る痕跡
という意味合いが強いものです。
現在ではカメラそのものだけでなく、この刻印を持つ個体を意識して集めるコレクターも存在します。
Nikon S2やSPなどとの組み合わせ
W-NIKKOR 2.5cm F4はNikon Sシリーズ用レンズです。
そのためNikon S2、Nikon SPなど、当時のレンジファインダーニコンとの組み合わせが似合います。
特にS2は1950年代を代表するNikonレンジファインダーのひとつ。
クロームボディに極小の2.5cm F4を装着すると、現代の超広角レンズとはまったく違うコンパクトなスタイルになります。
ただし25mmの画角を正確に確認するには、ボディによっては外付けファインダーなども考える必要があります。
レンジファインダーカメラでは、一眼レフのように装着したレンズを通して直接構図を見るわけではないためです。
現代で使うなら取り扱いに注意
W-NIKKOR 2.5cm F4は、設計からすでに70年以上が経過しているレンズです。
中古品では、
- レンズのカビ
- クモリ
- 拭き傷
- コーティング劣化
- 絞り羽根
- マウント部分
- レンズ後玉
- 絞り操作
- ボディとの連動
などを確認しましょう。
特にこのレンズは光学部品そのものが非常に薄く、製造当時から取り扱いが難しかったことがニコン公式資料に残されています。
自分で分解清掃しようとするのは慎重になったほうがよいでしょう。
数十年前の希少レンズだけに、必要ならクラシックカメラを扱う修理業者へ依頼したほうが安全です。
中古では付属品もポイント
古いレンジファインダー用超広角レンズでは、本体だけでなく、
- フロントキャップ
- リアキャップ
- 専用ファインダー
- フード
- ケース
- 元箱
などの付属品が残っているかどうかも重要です。
特に専用品はレンズ本体以上に見つけにくい場合があります。
撮影目的ならレンズの光学状態が最優先ですが、コレクション目的なら付属品も含めて確認したいところです。
E.P.刻印個体なら、ボディやアクセサリーにも対応するE.P.刻印が残っているケースがあり、セットとしての来歴にも面白さがあります。
まとめ
Nikon W-NIKKOR 2.5cm F4は、1950年代に日本光学がNikon Sシリーズ用として開発した超広角レンズです。
設計は1953年秋に完成し、1954年には量産図面が作成されました。
わずか4枚のトポゴン型光学系で25mmの広角を実現し、
- 非常に小さなパンケーキ形状
- 歪曲収差の少ない設計
- 開放では柔らかく、絞るとシャープになる描写
- Sマウント版ではピントリングを持たない特殊構造
など、現代のレンズとはまったく違う特徴を備えています。
さらに今回の個体に見られる〈E.P.〉刻印は、レンズの光学仕様を示すものではなく、戦後の免税販売や米軍関係のExchangeを通じた流通と関係する歴史的なマーキングです。
つまりこの一本には、
ニッコール広角レンズの歴史
だけでなく、
戦後日本のカメラ産業と輸出の歴史
まで刻まれています。
現代の25mmレンズと性能だけを比較するような製品ではありません。
0.45mmという極薄レンズを当時の技術で加工し、わずか4枚の光学系をビー玉のような鏡筒へ収める。
「小さいけれど、とんでもなく手間がかかっている。」
Nikon W-NIKKOR 2.5cm F4は、まさにニコン公式が表現する「山椒は小粒で、ぴりりと辛い」という言葉がよく似合う、初期ニッコール屈指の個性派広角レンズです。









